2025年09月22日
コリント人への第二の手紙 4章7-11節、16-18節
本日の御言葉は、使徒パウロがコリント教会に送った手紙から、キリスト者が苦難の中で人生をどう解釈すべきかについて深い洞察を与えてくれます。パウロは、私たちの人生を「土の器に宿された宝」という比喩で説明し、世の価値観とは異なる生きる基準を提示しています。
1. 世の観点 vs. 聖書の観点
世の中は、目に見える成功と華やかさ、すなわち「金の器」になることを追い求めます。外見、財産、社会的地位など、外に現れるものに価値を置きます。しかし、聖書はこれとは反対の観点を示しています。パウロは、自身を含むキリスト者を、壊れやすく、みすぼらしい「土の器」にたとえています。
この比喩において、土の器は私たちの弱い肉体と人生を、宝はその内に宿るイエス・キリスト、すなわち福音を意味します。聖書は、私たちが外見の華やかな金の器になって成功せよとは言いません。むしろ、自らの弱さを認め、その内に永遠の価値である宝を宿す人生こそが、真に尊いものだと強調しています。
2. 苦難と弱さの新たな解釈
パウロは、土の器のような私たちが苦難や迫害を受けても、落胆しないと告白します。その理由は、私たちの力ではなく、私たちの内に宿る神の力が現れるためだというのです。このように、パウロは苦難を単なる苦痛としてではなく、私たちの内にイエスの命が現れるための通り道として解釈しています。
また、パウロは「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」と語ります。これは単に肉体が年を取ることだけを意味するのではありません。主のために経験した数々の苦難によって体が弱ったとしても、内なる霊的な存在は毎日新しくされるという意味です。
3. 見えるものと見えないもの
パウロは、本当に賢い人ならば、ほんの一瞬で消え去る「見えるもの」ではなく、永遠の「見えないもの」に注目して生きると強調します。世の中は目に見える成功と富を重要視しますが、パウロは永遠の命を与えてくださる神様に焦点を当てました。
結論として、この御言葉は、私たち皆が壊れやすい土の器のような存在であることを自覚し、その内に宝であるキリストを宿して生きる尊い存在であると認識するようにと挑戦を促しています。世の中の基準ではなく神様の基準で人生を解釈し、苦難の中にあっても、私たちの内に働かれる神様の偉大な力を信頼し、永遠のために生きていくことを願ってやみません。